融解する



起きて顔を洗おうとしたら洗面所の蛍光灯が力なく点滅して切れた。
戸棚を漁って買い置きを見つけたはいいけれど踏み台が見当たらなくて、
遅い朝食を食べようとして台所に立ち、散らかったままのシンクに気付く。
そういえば昨夜は遅くまで仕事で、洗い物をせずに眠ってしまった。

まだちょっと眠い頭のまま食器を洗っていたら、洗剤で手が滑ってガラスのコップにヒビが入った。
安物だったけれど大きさが丁度良くてお気に入りだった最後の一個。
溜息をついて片付け、危なくないように紙で包もうとしたのに新聞紙が無い。
そういえば昨日は古紙の日だったから新聞は全て出してしまったのだった。

とりあえず怪我をしないように割れたガラスをゴミ箱の底へ押し込んだ。
何か作る気も失せて、簡単に食べられるものを探したけれど
運悪くインスタント食品の類は全て切れていて遂に溜息が出た。
冷蔵庫を覗いてみたがすぐに食べられそうなものは無い。

お腹が空いてきて苛々が募った。

こうなったら買物の前にどこか美味しい物でも食べに寄ろうと決意する。
簡単に身支度を整え、最低限のメイクだけして髪も軽くまとめるだけにした。
少し奮発してやろうと財布を持って玄関の扉を開けたら、湿った空気に嫌な予感がした。
エレベーターホールから外へ出ると案の定、既に小雨が降り始めていた。

「・・・最悪」

傘を取りに戻らなければいけなくなった。
雨だと分かったら、お気に入りのパンツで出かけたくないし靴も履き替えたい。
降りたばかりのエレベーターへ戻ろうと踵を返したら
上階で誰かボタンを押したのかタッチの差でするすると上昇されてしまった。

あたしは絶望的な気分になってエントランスのベンチに腰を下ろす。

コンコン、とガラス戸を叩く音がした。
うんざりと首を巡らせてガラス越しに見えた呑気な顔に一気に目が覚めてしまう。
慌ててオートロックを解除し、首を傾げて入ってきた彼のジーンズの裾が濡れてるのを見た。

「あれ?なに出かけんの?」
「・・・・・・」
「買物したらさーいきなり雨降ってきて、近かったから寄らせてもらった」
「・・・・・・」
「あ、出かけるなら俺帰るよ。けど傘貸してくんねぇ?しばらくやみそうにないし」

鬱陶しそうに雨の滴を払いながら喋り続ける彼の前であたしは動けない。
唐突すぎる訪れと会えなかった時間なんて無かったかのような態度が
嬉しさとか驚きとかを一緒に運んできてしまった。

「あ・・・」
「ん?」
「・・・出かけるの、やめる」
「え、いいの?用事とか」
「いい。ご飯食べに行こうと思っただけだから」
「飯まだなのかよ、もう昼過ぎてんぞ?」

呆れて苦笑するちょっと伏せた目を見て、あぁ彼の癖だと思った。

エレベーターが下りてくる。
降りてきた人と会釈して、彼があたしの手を取る。
ぐっと引かれてようやく身体が動いた。

「ちょうど飯の材料あるから一緒に食おうぜ。俺も昼飯まだだし」

出てきたばっかりの部屋のドアを開ける。
彼が下げてた袋は近くのスーパーマーケットのもので、中からは言葉通り食材やら日用雑貨やらが出てきた。

「あ・・・コップ買ったの?」
「あぁ、昨日最後の一個割っちゃってさー。でもそれ四個入りなんだよね」

ファミリー用ってやつ?でも安かったから買っちゃった。

洗面所から声がする。
濡れた髪をタオルで拭いながら彼が顔を出した。

「なぁ、電気つかねぇんだけど」
「蛍光灯切れたの。取り換えたかったんだけど届かなくて」
「後で換えてやるよ。出しといて」
「ありがと。ねぇこのコップさ、一個もらっていい?」
「ん?いいけど何でー?」
「さっき最後の一個割っちゃった」

久しぶりに会話を交わすことで苛々した気分がちょっとずつ落ち着いてくるから不思議だ。
蛍光灯は切れたし、コップは割れるし、冷蔵庫は空っぽだし雨まで降ってきた日曜日。

「ご飯、何食べたい?」
「何でもいーよ。お前の手料理久しぶり」

コップは新しく手に入ったし、冷蔵庫の補充も出来た。
雨は降り続いてるけれど出かけなくて良くなったからもう気にならない。
じゃぁ次はお腹を満たすのが先決と包丁を手に取ったところで、背後に彼が戻ってきた。

「あのさー、仕事忙しいの分かるけど、ちゃんと飯食ってる?」
「・・・食べてるよ。今日はたまたま」
「ふーん。なぁ前から言おうと思ってたんだけど」

一緒に暮らさねぇ?

ザクッ。
玉葱を半分に切る。

「そしたらコップ四個あっても邪魔じゃねぇし」

さらっと何でもないことみたいに続けて彼は笑う。
こめかみの辺りがドクドクとして、これは心臓の音だとどこか遠くで理解した。

「あーもう、ほらやっぱり痩せてるじゃん」

料理中は危ないから抱き締めたりとかやめて欲しい。
あぁなんだか涙が出てきて止まらない。
最悪だった日曜が最高の日曜へと変化を遂げた。
何でもない彼の日常があたしの中にどんどん融け込んできて、
混ざり合って一つになるのは時間の問題な気がした。






メルマガVol.172掲載(2008年3月20日発行)
「浸透する」からのカップル日常シリーズ?三作目。


// written by K_