浸透する



 仕事が忙しいを口実にデートの誘いを断られ始めると、それは危険な合図だという。三回連続振られっぱなしのあたしは友達に向けては余裕を装いながら、内心少し焦った。

 彼の口実はこうだ。

『ごめん・・・ちょっと今、仕事立て込んでて』

 一回目は、なら仕方が無いね、無理をしないでと微笑みながら気遣いの言葉をかけて。電話を切った後、空いた休日をどう過ごそうか考えた。
 二回目は、じゃぁ仕事頑張ってと当たり障りのない言葉をかけて。電話を切った後、仕事なんだからと言い聞かせてもモヤモヤは消えてくれなかった。
 三回目ともなると、彼の方も申し訳なさそうに歯切れが悪くなる。謝るくらいなら時間を作ればとは言えずに、また電話すると言って返事を聞かずに切った。無理をしないで、仕事頑張ってねとは、言えなかった。

(あたし、心、狭い・・?)

 束縛を好むわけじゃないけれど、女の子らしく不安なんてものも抱いてしまうのだ。恋愛のジンクスほどあてにならないものはない。けれど時として面白いくらいバッチリはまってしまうのも、ジンクスが語り継がれる理由の一つであり。

「・・・浮気・・・・・・」

 口に出したら余計に情けなくなった。また電話するねと言ってから一週間、鳴らない電話を握り続けるのももう飽きた。メールを寄越す暇くらいあるだろうと思ったけれど冷たく沈黙したまま、履歴は他の人で埋まってゆく。

 気になり始めるとおさまらないのは性分で、思い立ったら即行動もあたしの信念だ。

 悔しかったから携帯の電源を切ってやった。人を訪ねるにしては遅すぎる時間だという事くらい頭の隅で理解していたけれど、こらえきれずに部屋を飛び出した。



「来てしまった・・・」

 何度となく訪れた彼の部屋の前で合鍵を手に迷う。夜風が少し頭を冷やしてくれて、逆に余計な想像ばかりが膨らんでゆく。もし女が出てきたらどうしよう。二人が抱き合ってたりしようものなら、あたしは彼を殴るかもしれない。

「いや、殴っちゃ駄目だってば」

 冷静に、冷静に。
 ぶつぶつ呟きながらそっと合鍵を差し込む。右に回すとガチャン、と鍵が外れた。それだけの音がやけに大きく響いた気がして、慎重にドアを開けた。

 そんなに広くはない一人暮らしの男の部屋は、シンと静まり返っていた。そうっと足を踏み出し、何かを蹴飛ばして思わずビクッとしてしまう。

(な、何!?)

 薄暗い明かりの中で目を凝らして恐る恐る拾い上げてみれば、それは空のカップ麺の容器だった。その先にはペットボトルがこちらも空っぽで落ちている。嫌な予感がして、携帯電話の明かりをつけて部屋を見渡してみた。

「・・・・・・」

 彼は、決して綺麗好きではない。だが、決して無精者でもない。
 つまり彼の部屋は、綺麗とは言いがたいが、汚くはない程度には片付けられていた。そう、最後にこの部屋を訪れた、二週間前までは。

 仕事が忙しいというのは本当だったんだ、と惨状を目にして納得を覚えるとは予想外だ。

「・・・じゃなくて、アイツは・・・?」

 部屋を片付けるのは後にすることにして、視線を床から上げる。狭いシングルベッドの上が人型に盛り上がっていた。ゴミの山を踏まないように細心の注意を払いながら近寄ると、微かに寝息が聞こえた。

「爆睡中・・・」

 着替えるのも面倒だったのか、ワイシャツとスラックスがベッドの上に散らばっている。記憶の中よりも少し痩せたなと思った。目の下にはうっすらと隈が出来ていて、寝ているというのに眉間には皺が寄ったままで。

「・・・ごめん、アンタを疑ったあたしが悪かった」

 本当に疲れきっているんだろう、声を出してもぴくりとも動かない。ざらついた頬を撫でて、少しだけ淋しさを覚えた。

 しばらくそうして寝顔を眺めていると、彼が不意に身じろいだ。悪いことをしたわけでもないのにいきなりのことに驚いて固まってしまう。
 短い睫毛が震えて、彼がうっすらと目を開いた。

「・・・・・・」
「・・・・・・お、おはよう」

 言いたい言葉はたくさんあったのに、どれも準備不十分すぎた。

「あ、あの・・・」
「なに、お前、きてたの・・・」

 掠れた声。

 起きているのか寝ぼけているのか、意識があるのか無意識なのか。彼は固まったままのあたしの手を掴んで、カバンも手にしたままのカップ麺の空容器も一緒にベッドの中へ抱き込んでしまった。

「おきたら、話、きくから。マジ、限界、わりぃ・・・」

 最後の方は言葉にもならないような囁きに近く、彼は再び眠りの世界へ舞い戻ってしまって。
 あたしは、彼に抱きしめられたまま、身動きも取れずに。目の前にある彼の目が閉じられていて良かったと、心から思った。

(ヤバイ・・・)

 きっと今、あたしの顔は真っ赤だ。低く掠れた囁きが、今も身体の奥で渦巻いているようで、熱い。

(ヤバイ・・・あんなの、無いよ)

 ぎゅっと目を瞑ったけれど、とても眠れそうに無かった。ただ身体中に響く鼓動と耳に残る声だけが全身の神経を浸していく。

(アンタは、ずるい)



 声を聞いてしまったら、声だけなんかじゃ。






メルマガVol.148掲載(2006年7月31日発行)
腹の底あたりに直接響く低音は男の特権だと思います。
↑と、当時のあとがきにて語っておりました(笑)


// written by K_