RainDrop



ブラインドを下ろした窓ガラス越しに細かな雨粒が叩きつけられ始めたのを知り、
社内の時計を見上げて溜息をついた。

たった今、打ち合わせ兼の昼食を終えたばかりだというのに、窓の外は既に夜のような暗さだ。
夜からは雨になるでしょうと言っていた気象予報士の爽やかな笑顔を思い出し、
夜どころか夕方にさえなってないぞと心の中で悪態をつくけれど
もちろん降り始めた雨が止んでくれるはずもなく、傘を持ってこなかったのにどうやって帰ろうかと考える。
家を出る時に、折り畳みを持っていけばと言った忠告を素直に聞いておけば良かった。
心優しい恋人の言葉より、梅雨入り前だというのに
大胆な露出の服を着たワイドショーのお天気お姉さんを信じた自分を恨み、また溜息。

容赦なく強まる雨足を眺めていても仕方ない。
夜までには止んでくれることを願いながら(限りなく可能性はゼロに等しいが)
どことなく湿り気を帯び始めた気のする書類を、ぺらぺらと捲った。



とまぁ、梅雨を前にした雨雲はそう物分りのいいものじゃなかった。
終業時刻ぴったりに腰を上げたはいいものの、雨音はいっそう激しさを増したように思える。
朝はどちらかと言えば日差しが眩しいくらいだったこんな日に
傘を二本持っているような用意周到な同僚がいるとは思えず、憂鬱な気分を覚えながら鞄を手にする。
この際、忘れ物の傘だろうがコンビニの傘だろうが文句は言えないだろう。

しかし現実は冷たい。
午後からの急な雨に社員たちが考えた事は皆同じらしく、傘を借りに立ち寄った警備室では
年配の警備員が申し訳なさそうに眉根を下げ、忘れ物の傘は全て持っていかれてしまったのだと言う。
この土砂降りの中、最寄のコンビニまで駆けていくのは結構きつい。
会社のエントランスに佇んで目をこらしても二つ先の信号さえ霞んでしまうような大雨だ。

仕方ない、と心中呟くのも何度目だろう。
おもむろに通勤鞄を頭の上へ掲げ、ちらほら見える同じ格好の人々を横目に
可能な限り雨粒を避けて最寄のコンビニへと走る。

軒先へ駆け込むと同時にぱしゃんと跳ねた泥がズボンの裾を濡らして肩を竦めた。
あまり意味はないけれど、濡れてしまった背広を払う。
ぱらぱらと散る水滴を一応ハンカチで拭いて、入口近くに立ててあるはずのビニール傘を目で探した。
・・・のだが。

「嘘だろー・・・」

安っぽいスチールのパイプに傘は一本として差さっておらず、最悪だと肩を落とす。
こんな大雨の日に、店頭に並んでない在庫があるなんて思えない。
やはり駅まで走っていくしかないのかと一人頭を抱えた時、トン、と小さく肩を叩かれた。
不機嫌な顔のまま振り向いた先にある笑顔に思わずぽかんと口が開いた。

「・・・・・・何、してんの」
「忘れ物ですよ、おにーさん」
「いや、何で、いんの?てかお前、仕事」

にっこりと、二本の傘を持って彼女が笑う。
傘と笑顔の間で何度も視線を往復させながら、迎えに来てくれたのだと頭では理解していたけれど
今まで何の連絡もなく会社の近くまで来ることなんてなかったから、嬉しさよりも驚きが勝ってしまう。

「どうせ置き傘なんてしてないんだろうなーと思って、会社終わってすぐこっち来たの」
「そう・・・だったんだ」
「傘、持ってきなよって言ったのに」
「・・・あぁ」
「・・・ごめん、メールすれば良かったね」

反応の悪さをマイナスに受け取ったのか、彼女の表情が曇った。

「もしかしてまだ仕事あった?邪魔なら帰るけど」
「え?や、違うんだ。その・・・びっくりしただけ」

そう?と首を傾げ差し出された傘を受け取ったはいいけれど、
こういう場合(つまり彼女が遠回りになるにも関わらず雨の中を迎えに来てくれた場合)は初めてだから
月並みにサンキュ、と呟くしか出来ない自分に溜息が出る。
再び顔を曇らせた彼女に大丈夫?疲れた?と気遣わしげに顔を覗きこまれ、慌てて首を振り、自動ドアの前に立った。

間抜けな電子音と共に開いた扉の向こうは、相変わらずの大雨だ。
大きな黒い傘を広げ、雨粒の下に一歩を踏み出したら、すぐ後ろで彼女が傘を広げる気配がした。

「・・・あのさ」

少しだけ躊躇う。
せっかく二本の傘を持ってきてくれた彼女に対して、もしかすると不躾というか失礼なんじゃないかとか
色々と頭を考えが駆け巡ったけれど、結局は少しだけ迷った後に口を開いた。

「二人で、入ってかない?」

彼女がぱちぱちと瞬きを繰り返す。

「濡れるよ・・・?」
「ここに来るまでにちょっと濡れちゃってるし、少しくらい平気だよ」
「二本あるのに一本しか使わないって、傍から見たら間抜けじゃないかな」
「気になるの?」
「・・・少し。それにやっぱり」

あなたが濡れてしまうから。
そう続けた手から、女物の華奢な傘を取り上げる。
あ、と小さな声を上げて、彼女は恨みがましそうな目でこっちを見上げた。

「入って」

空けたスペースと俺の顔を交互に見上げ、けれど彼女に選択肢は一つしか残っていなくて。
飛び込んできた頭一つ低い小さな体躯が濡れないよう、しっかりと傘を持ち直す。
駅までの距離はそう長くない。
並んで歩き出しながら、歩調は雨のせいだけじゃなく緩やかになり、自然と口元も緩んだ。

「前にね、したことないって言ってたでしょ」
「・・・言ったけど。何もこんな大雨の日じゃなくたって。それにまさか、街中でするなんて思わないもの」
「誰も見てないよ。それに俺がしたかっただけだから」

率直に漏らせば、彼女は一瞬だけ目を見開いて、すぐに顔を伏せてしまった。

「・・・そんな風に言われたら、遠慮なんて出来ないじゃない」

強い風で乱れた髪の隙間から覗く耳が赤い。
少し肌寒いなと思ったけれど口に出すのは躊躇われて、濡れないようにとの口実を胸にその肩をぐっと抱き寄せた。
彼女は二人で入るには少しばかり小さい傘越しに空を見上げ、窮屈だけど悪くないね、と呟く。
じゃぁ今度も傘を忘れてみようかなと嘯くと、風邪をひいたらどうするのと叱られて。
雨足は強まる一方だったけれどさっきまでの不愉快な気分は吹っ飛び、
駅の明かりが見えても、もう少しだけこのままでいたくて、ゆっくりとした足取りで歩いた。






メルマガVol.179掲載(2008年5月31日発行)
梅雨だったので。


// written by K_