夏色ドロップ



 都会の小さな空を見ていた。高く、澄んだ空を。雲はよく見えない。ただ空を眺めていた。灼けつくような陽射しが消えれば灰色の落ち葉が舞った。葉が潰える頃に白い雪が舞い、やがてそれは花びらへと形を変えた。

 桜色と呼ばれる、儚い散り際を。

「大丈夫?」

 声をかけられても、それが自分に向かって発せられたと気付くのに時間を要す。薄ぼんやりとした灰色の世界を、真っ黒の瞳が覗き込んだ。目を瞬かせて、急に現れた男を見上げた。

「どうしたの、気分でも悪い?」

 男の顔が歪む。微かに首を横に振ると彼は表情を緩やかなものへ変えた。色褪せたベンチを手で示し、首を傾げる。意味が分からず瞬きをすると、彼は涼やかな声音で隣いいかな?と問うた。

「えぇ、私のものじゃないもの」
「・・・随分と長く、ここに居るみたいだね」
「どうして?」
「見ていたからさ、ずっとね」

 意外な返答に言葉が詰まり、再び空を見上げた。急に現れた男はまるで今までもずっとそこに居たかのように、隣に座っている。

「空を、見ていたの」
「・・・好きなのかい?」
「分からないわ。でもずっと見てる」
「変わってるね」
「そうかしら?誰もそんなこと言わなかったわ」

 目の前を花びらが散った。彼は髪についたそれを払い、同じように空を見上げた。

「青い空と桜・・・か、綺麗だね」
「そう?」
「綺麗だとは思わない?」
「分からない。よく見えないもの」
「・・・不躾なことを聞くかもしれないけれど」
「なに?」
「君は・・・目が悪いの?」
「見えるわよ。ただ、色が分からないだけ」

 桜色と言われても、澄み渡った青空と言われても。それが、どれほど美しい景色だと言われても。ただ薄ぼんやりとした世界しか。

「そうか・・・だから」
「え?」
「だから、君は毎日黒い服を着てるんだね」
「毎日いたの・・・?」
「人間ウォッチングが趣味なんだ」
「暇な人ね」
「君に言われたくないよ」
「あなたも相当変わってるわ」
「そうかな?」

 彼は少し微笑んで手を伸ばす。髪に触れた指先には、桜の花びら。

「綺麗な色をしているね」
「だから、分からないって・・・」
「君にはピンクが似合うと思うよ」
「・・・なにを」
「あとはオレンジとか、クリーム色もいいね。明るい色がいいよ、どうかな?」
「あなた・・・何なの?」
「人間ウォッチャー、なんてね」
「・・・どうして、私に声をかけたの」
「さぁ、何でだと思う?」

 微笑って、また花びらを払う。黒い瞳が楽しげに細められるのを見た。

「今から暇かな?」
「まるでナンパね」
「そのつもりなんだけど」
「・・・暇よ」
「なら、服を買いに行こう。明るい色の、君に似合う服」

 差し伸べられた手を、ためらいながら掴んだ。立ち上がるとき、彼の背に空が見えた。

「・・・今日の空は、青いの?」
「あぁ、とても綺麗だよ」
「空の色の服が欲しいわ」

 彼は一瞬目を瞠り、青空を仰いで笑った。

「そうだね、青い服も買おう。夏の色だ」
「あなたの名前、聞いていいかしら」
「それは、服を買ったあとのお楽しみということで」

 涼やかな風のように響く声に、知らず笑みが零れた。

「やっぱりあなた、変わってるわよ」
「そうかな?」
「そうよ」
「でも、君と逢えた」
「・・・関係ないでしょう」
「最重要項目だと思うけど」
「そうかしら?」
「そうだよ」

 少し見上げる笑顔を見て、ごく自然に、夏の空のように笑う男だと思った。



 もうすぐ、夏がやってくる。






メルマガVol.126掲載(2005年4月16日発行)
色が分からないという点に関しては下調べをせずに書いたので、不快に思われた方がいらっしゃったらすみません。


// written by K_