Coffee Break



 オフィスから徒歩五分。大通りの裏手にその店はある。

 寂びれた・・・アンティークな風合いの雰囲気は都会の真ん中にあるには不自然なほどで、初めて扉を開けたとき、まるでそこだけ時間の流れが遅くなったように感じた。
 昼食後に、営業直帰の日に、定時に上がれた日に・・・時間さえ許せば必ず立ち寄って一杯のコーヒーを注文することが日課のようになったのは、初めて足を踏み入れた日からそう遠くなかったように思う。少しの酸味と程よい苦味がブレンドされた味は、刺々しい日々の喧騒をひと時忘れさせてくれる。心が落ち着く優しい香りを楽しむために店を訪れるようになり、週に一回だったのが二回になり、三回となり、ほぼ毎日通うようになってからもう随分と経った。

「いらっしゃいませ」

 重い木の扉を開けて入る店内は薄暗く、暖かな間接照明で照らされている。入口から二つ離れたテーブルの壁際が指定席。今日も僕の他に客はいない。深く腰かける事ができる柔らかすぎない椅子もお気に入りだ。

「ご注文は」
「ブレンドを」
「かしこまりました」

 涼やかなレモンの香りと共に置かれたグラス。開かれなかったメニューを丁寧に下げ、カウンターの奥へ消えた彼女はどうやらこの店唯一の従業員兼店長、兼バリスタらしい。接客業には不似合いだが店の雰囲気にはぴったりと合っているキリリとまとめられた髪にあまり笑わない目元。彼女の淹れる味は好きだけれど、世間話も出来そうにない雰囲気は少し苦手だ。
 冷たいグラスを口に運びながら自然に視線が捉えるのはカウンターの中。湯を沸かし、豆を挽き、温かいカップを取り出す―――
 僕がこの席を好むのは、それらを自然に眺める事ができるからで。一分の迷いも隙もない流れるような所作を眺めながら、彼女のコーヒーを待つ。パリッとした制服を身にまとい、迷いなく動く。指先一つ迷うことなく。
 それはとても美しい。

「お待たせいたしました」

 カップをテーブルに置く。爪の先まで神経が張り詰めているような丁寧な動作で。今日も愛情を注いで淹れられたのが分かる一杯のコーヒー。香ばしくコクのある香りは、いつも同じ顔をして僕を出迎えてくれる。

「ごゆっくりどうぞ」
「ありがとう」

 口元だけは笑みを浮かべて一礼した彼女がくるりと踵を返した瞬間、僕は思わず小さくあっと声を上げていた。

「・・・どうかされましたか?」

 彼女の視線が、まだ口すらつけていないコーヒーカップを辿る。違う、そうじゃない。僕は慌てて開いたままの口を閉じ、何でもないと首を振った。僅かに小首を傾げた彼女の、再び向けられた背中から目を離せない。

 制服のベストの裾から白いブラウスが零れていた。

 豆を取る為に手を伸ばしたとき、きちんと着ていたはずのそれが崩れたのだろう。ベストとスカートの間に少しだけ顔を覗かせているそれはささやかで、けれど確実にその存在を強く主張していた。

 彼女は気付くだろうか、もう気付いただろうか。どんな顔でそれに気付いて直すのだろうか。

 僕は見てはいけないものを見たような、見たことのないものに初めて触れたような、二つの気持ちが混ざり合ったごちゃごちゃの心を抱えたまま熱いコーヒーを口にした。

 いつもより少し優しい味がする。その理由は一つしかなかった。

 この店に初めて足を踏み入れてから二ヶ月経った。ほぼ毎日通うようになってから一ヶ月が過ぎた。はっきりしていることは、僕は今、彼女の名前を知らないことに気付き、それを知りたくて仕方がないということだけだった。






メルマガVol.165掲載(2007年7月2日発行)
こんな恋の始まり。続きが読みたいとのお声を頂きましたが、続きはありません・・・。


// written by K_