蒼い空の下、オレンジ色の日差しを浴びながら。



 遠い遠い草原に、置き忘れてしまいました。とても大切で愛惜しいその名を。突き抜ける蒼い空の下、オレンジ色の日差しの中、置き忘れてきてしまいました。

 どうかもう一度、あの人の名を呼ばせて。

『やぁ、調子はどう?』

 覚えているのは優しい笑みと、多くを語る微笑。あの人の髪はとても黒くて、艶やかな光りがとても美しかった。髪と同じ真っ黒の瞳が細く笑う。時々、華奢なフレームの眼鏡を押し上げた指。
 あの人の爪はとても清潔に短く切り揃えられていた。

『今日は顔色が良いね』

 覚えているのは黒い髪と、白い服。あの人はいつも真っ白な服を着ていた。服と同じくらい透き通った肌。時々、手首の時計がきらりと光った。
 あの人の手首はとても細くて美しかった。

 カーテンを開けるのはあの人の役目。身動きが取れないから、閉めるのもあの人の役目。木漏れ日が部屋に差し込んでは、気持ちの良い日差しだねと微笑む。突き抜ける蒼い空を遠くに眺めていた。窓は開けてくれなかったから、外の空気なんて知らない。

 だって、あの人が居れば部屋の空気はとても綺麗だったもの。

 白い服の裾が広がる度、芳しい香りがした。白い服の袖が捲れる度、覗く手首が眩しかった。ふわりと微笑む笑顔は多くを語り、彼の口数は多い方では無かった。

 黒と白を纏った、とても綺麗な人。

 真っ白な服が真っ赤に染まったのは、いつだったのか覚えていない。

『・・・可哀相な、子だ・・・』

 覚えているのは色を失った唇から滑り落ちた言葉、真っ白だった唇。あの人の白い肌も白い服も真っ赤になってしまった。真っ黒の瞳が段々光りを失うのを、ただ見つめていた。掌から離れたナイフが血溜まりに落ちた。

 こんな時でも綺麗な指先が腕を掴んだ。
 爪先はやはり、清潔に切り揃えられていた。

『可哀相に・・・』

 多くを語る微苦笑を浮かべても、言葉にはしてくれない。綺麗な部屋の空気が淀んでゆく中、差し込む日差しだけが黒髪に艶を与えていた。眼鏡を外した手が震えながら頬に触れる。近付いた顔が少しだけ苦痛に歪み、温かい吐息を吐き出した。

 あぁ、なんて綺麗な人。なんて綺麗な赤を纏うのだろう。

 とても大切で愛惜しい。

『・・・君は』

 あの人は、何を言おうとしたのだろう。言葉はそこで途切れ、二度と彼の美しい声を聞くことは叶わなかった。

 頬に触れた掌は力を失い、乾いた音を立て腕時計が割れた。赤い服を抱きしめると、芳しい香りが仄かに残っていた。眩しいくらい綺麗な手首はぱっくりと口を開けている。

 浮かべたままの微笑が綺麗だった。

「う・・・ぁ・・・」

 まだ温かい身体から、少しずつ熱が冷めてゆく。窓の外では日が傾いて、日差しがオレンジ色に変わってゆく。日が暮れたら、カーテンを閉めて欲しい。

「・・あ・・・ぅ、ぁ・・・」

 綺麗な真っ黒の瞳は瞼の向こう。もうこの目は二度と開かない。何故か、身体が震えていた。腕の中のあの人が、とても静かに微笑んでいる。

 ぽた、と、知らないものが綺麗な瞼に落ちた。それでも瞳は現れない。部屋の空気が淀んでゆく。噎せ返るような甘ったるい匂いに、芳しい香りが掻き消されてゆく。

 生まれて初めて、目から溢れる水分は塩辛いのだと知った。どんな風に声を出せば良いかも分からなかった。ただ、腕の中で冷たくなってゆく人は、二度と目覚めないのだと分かった。

 同時に、大切な人の名前も忘れてしまった。

 そこは、遠い遠い草原。爽やかな風が吹き、暖かい日差しが眩しい。白と黒を纏った綺麗なあの人が、微笑みながら首を振る。突き抜ける蒼い空の下、優しく微笑む。黒い髪がさらりと風になびき、真っ黒の瞳が僅かに細められた。

『・・・駄目だよ、まだ、此方に来ては』

 日は傾き、風が冷たくなる。オレンジ色の日差しがあの人の横顔を照らし、綺麗な空気が淀んでゆく。

『君は・・・何も知らないのだから』

 あの人にしたことは、手首に突き立てたナイフ。自分の身体を切ろうとしたけれど、自由の利かない手ではうまくいかなかったから。とても綺麗だったあの人の手首に、カッターナイフを突き刺した。

『君がすべきことは、知ることだ』

 だからあの人の名を思い出せない。名を呼んで、今すぐ其方へ行ってしまいたいのに。

『知って、そして考えなさい。君が何を償うべきか』

 知ること、考えること、償うこと。

『君は―――』

 やはり、それ以上の言葉は聞けない。

 とても大切で愛惜しい人を、この手で殺めてしまったようです。真っ白な服が真っ赤に染まり、動かなくなりました。生まれて初めて、涙が頬を伝いました。言葉を紡げない口から、嗚咽が漏れました。

 今はまだ、あの人の名を呼べません。犯した罪を知り、償う日が来るまで。その日が来たら、真っ先にあの人の名を呼びます。とても大切で愛惜しい、大好きだったあの人の名を。

 だからそれまで遠い遠い草原で待っていてください。蒼い空の下、オレンジ色の日差しを浴びながら。






メルマガVol.108掲載(2004年11月発行)
尽くし続けた愛と成就しなかった愛。


// written by K_