風が吹いても何も感じなかった。

 煙を口に含んでも無味だった。

 眼下の喧騒はただの雑音だった。

 街並みは色褪せたモノクロフィルムのように。



 何もかもが鮮明になり始めたのは、いつからだろう。



デリバリー・アニバーサリー



「あ、やっぱここに居たー」

 屋上で煙草を吹かしていたら、扉が軋んでイクミが顔を覗かせた。胸元まで伸びた茶髪がさらさらと揺れる。空気に混ざっては消えてゆく、紫煙を眺めていた。青空が広がっているくせに都会の空は淀んでいるように見える。

 ぼんやりとした視界に、イクミの顔が広がった。

「・・・よう」
「気の無い声〜一緒にお昼食べよう!」
「・・・・・・」

 もとよりイクミは自分の返事など聞いちゃいないのだ。

 一人で考え事をしていようが。あぁーつまんねぇなぁ何かいいことないかなぁと思っていようが。仕事に煮詰まっていようが。煙草が切れたことに気付いて苛々していようが。まどろみながら、惰眠を貪ろうが。

 彼女はお構いなくコンクリに腰を下ろす。

 斜め横に座った彼女を眺めながら、吹き付ける風になびく髪を見た。最初からイクミの髪はこんなに長かっただろうかと思い、思い返せない自分に愕然とする。

 彼女が初めてこの屋上に来たのはいつだっただろう。

「サンドイッチ食べる?菓子パンもあるけど」
「・・・何でもいい」
「カツサンド!新製品だから、コレ」

 さらさらとなびく髪をかきあげ、イクミは別の袋からパンを取り出した。いただきますと丁寧に手を合わせて食べ始める。

 差し出されたカツサンドにかぶりつくと無言でポカリを渡された。礼も言わずに受け取るが、彼女はそれを咎めたりはしない。新製品だというカツサンドは美味い。できればポカリではなく缶コーヒーか何かの方がありがたかったのだが。イクミを盗み見ると手元にはミルクティーの缶が握られていた。一口もらおうか迷って、結局やめた。

 ただ、屋上で肩を並べて、昼食をとる。

 そんなことを毎日続けている。



 初めて彼女がこの屋上に来た日。それは確か今日のように風が少し強くて、日差しがきつい初夏だったように記憶している。仕事が行き詰まって苛々して、煮詰まっていた。鍵が壊れていることが意外に知られていない屋上の扉を開いて。コンクリに背を預けて空を眺めながら煙草を吹かしていた。

 何もかもが色褪せて見えた。見上げる空の色さえも、自分の目には青く映らなかった。ただ、軋んだ音を立てて開かないはずの扉が開いたとき、ぼんやりとした視界のピントが合った。

『あれ?先客あり?』

 ただ一言だけ発したイクミの声は、思いのほか真っ直ぐ鼓膜に届いたように思う。



 ごちそうさま、とまたイクミはきちんと両手を合わせる。くしゃくしゃになった袋を丁寧にたたんで、自分の分も合わせてゴミ袋にまとめる。

 そのまま立ち上がって、イクミは仕事に戻るのが常だった。

「・・・・・・」

 袋を右手に持って、左手をコンクリについたまま、イクミは立ち上がろうとしない。食後の一服とばかりに煙草に火をつけながら不思議に思って表情を伺い見る。長く伸びた前髪が顔の殆どを覆っていて、それは叶わなかったけれど。

「・・・あのさぁ」

 ぽつりと漏らした声は、少し間延びしている。深く煙を吸い込みながらそれを聞いた。思えばイクミとこうして会話らしい会話をするのは初めてのことではないだろうか。

「私、一年前から髪切ってないんだよね」

 脈絡が分からずに思わず瞬きを。

「髪、伸びたと思わない?」
「・・・言われてみればそりゃぁ」
「でしょ?願掛けしてんだ」

 毛先を弄りながらイクミは言う。煙草がフィルター付近まで燃えて、指先を焦がした。新しく火をつけるとちりりと燃え上がる。それを眺めながらイクミは続けた。

「恋の願掛け」

 すっと手が伸びてきて、煙草を取り上げられた。こんな至近距離で彼女の顔を見るのは初めてで戸惑ってしまう。

 意外と睫長いんだとか、肌が綺麗だとか。メイクは毎日薄いよなぁとか、指が長いとか。

 どうして彼女は毎日自分に昼食のデリバリーなぞするのだろうとか。

 あてもなく思考が巡る。

「・・・アンタと初めて会った日もこんな天気だったっけ」

 話がよく飛ぶのは女としてはよくあることだが、イクミとしては珍しい。とはいえ、彼女の会話傾向を詳しく知るほど話した事はないのだが。

「一年って長いよ」

 真っ直ぐに自分を見据える瞳。あぁそうだ。彼女と初めて会った日、それは今日と同じような日で。

 風が強く吹いていた。煙草を吸いながら眼下の喧騒が耳に響き、空が青く。色褪せた景色を見ていた。

 丁度一年前、軋んだ音と共に屋上の扉が開くまで。

「・・・一年前」

 イクミが、目の前に現れた日から。

「たぶん、一年前から」

 何もかもが鮮明になり始めた。ぼんやりと揺れていた焦点が合った。

 繰り返されるデリバリー。何も言わずに肩を並べた空気は澄んでいる。青い空がいっそう高くなった。



「好きかもしれない、お前のこと」

「好きなんだ、アンタのこと」



 同時に発せられた同じ言葉に、どちらともなく吹き出した。強く吹きつける風が髪を乱す。笑顔を覆ってしまうそれを一房、指で掬い上げた。

「とりあえず―――」

 きっと初めて視線を合わせる。少しだけ離れた斜め横じゃなくて、正面から。イクミが映る。

「髪、切りに行くか」



 出会って一年。今日という日、少し天気の良い何でもない日。色づく世界にまた一つ、新たな色。

 君という極彩色を。



 もうデリバリーは必要ない。






メルマガVol.100掲載(2004年8月発行)
100という記念すべき号数だったので、“記念日”をテーマに書きました。


// written by K_