雨だれ



小さな花が散りばめられた華奢なコーヒーカップに添えた指先が荒れている。
気付いたけれど労わりの言葉をかけるのも白々しい気がして開きかけた口を閉じた。
水仕事が多い彼女は特に冬場、指が荒れるとぼやいていた。
痛々しくひび割れる手指、ネイルアートなんて許されない仕事で
あんまり綺麗じゃないからと手を繋ぐのを嫌がったのを無理矢理繋いだのはいつだっただろう。

初めて手が触れたとき確かにこの体は震えたのだ。

カチャリ、とカップとソーサーが擦れる音がした。
店内に緩く流れるピアノの旋律。
何だったろう、彼女と見た映画で使われていた。
有名なのに曲名を思い出せず耳を澄ませて目を眇める。
落ち着いたベージュを刷いた唇がゆっくりと開いた。

「・・・雨だれ」
「え?」
「ショパンよ」

涼やかな声音が響く。
前にも教えてもらったことを思い出した。
何度聞いてもクラシックの曲はなかなか覚えられなくて、
けれど彼女は呆れもせず怒りもせず、その度に曲名を告げてくれた。
きっと数日後にこの曲を聞いても恐らく忘れてしまっているだろう。
その時、教えてくれる彼女はもういない。

いつもの窓際の指定席から外を見ると、薄暗い空からポツリと雨が落ちてくる。
途端に雨粒が流れ落ちる窓ガラス越しの景色も、もう見ることはないのかと薄ぼんやり考えた。

「ごめんね」
「どうして?謝るのは俺の方だと思うけど」
「・・・そっか。そうだね、でも何となく」

伏せた睫毛は長い。
くっと唇をかたく引き結ぶのは悲しみを堪えている証拠。
そんな癖は知りたくなんてなかったのに、そうさせてしまったのは他でもない自分で。

「愛してるよ」

言うと、一瞬の瞠目の後、彼女は静かに瞑目した。
閉じた瞳から涙が零れる。
睫毛を濡らすそれに酷く安心するのは卑怯だろうか。

「・・・遅いよ」

咎めるでもなくただ悲しげに響く声が痛かった。
そっと伸ばした指先はまた彼女に触れることなく。
決して嘘なんかじゃない言葉を、もっと早く言えていれば良かったのかもしれない。
こんな状況になるまで口に出せない自分はどうしようもなく愚かだ。

彼女の背を見送ってから唇を噛んだ。
持ち上げたカップから湯気は立たず、冷えきったコーヒーを飲み干すと少しだけ鼻の奥がツンとした。

窓の外、灰色の視界の奥に水色の傘が見える。
水滴が流れる曇った窓ガラスが徐々に滲んで、揺れる傘が遠ざかる。

自分が涙を流していることにようやく気付き、唇を引き結んで目を伏せた。



店内に流れていた雨だれはいつのまにか知らない曲に変わっていた。



<END.>






メルマガVol.175掲載(2008年4月15日発行)
原稿時に聴いていたのは、まったく関係の無い曲でした。


// written by K_