赤い爪の女



 覚えているのは、脱色しすぎて傷んだ髪、きつい香水の匂い。ハイヒールの踵が割れたコンクリートを踏んで近付いてくる音、遠ざかる音。

 郵便受けの隙間から覗いた、真っ赤なマニキュア。

 そこで俺の記憶は途切れる。もう一度再生すると頭出ししたようにまたどぎつい茶髪を思い出す。マニキュアの先には何かがあったのか、覚えているはずなのに思い出せなくて、苛々と爪を噛んでは、そういえば女の爪先はいつだって丸く整えられていたことを思う。放り込まれる食料がパンや弁当ばかりだったのも、あの爪で料理なんてしなかったからに違いない。女の長い爪は男の背に立てる為のものだったのだ。

 女を親だと思ったことなど一度も無かった。そもそも俺の中に親という概念は存在しなかった。四角いコンクリートから出た俺に顔の無い男は母親という存在を教えてくれたが、俺にとって女は女でしかなく、赤いマニキュアが投げ入れる物が“彼女”の全てだった。

 恨んでも憎んでもいない。好きも嫌いも感情すら存在しない。顔の無い男の話だと、俺は今年で女が俺を産んだ歳になるらしいがそんなことはどうでもよかった。俺が知りたいのは、どうしても思い出せない欠けた記憶の切れっ端だ。

 何の切欠も無かった筈のある日。

 弁当の袋を掴んだ女の指先が、郵便受けから覗く。入口をこじ開けてビニールと缶詰が侵入してくる。
 その時、俺は初めて、女の手を取った。

 右手に缶切を持って、女の手を取ったんだ。



 ―――そこまで記憶を辿った俺の視線は、二つほど離れたスツールに腰かける女を見つけた。

 週末のバー。小さな店だが酒が上手くてマスターが物静か。いわゆる穴場って感じの店に俺は毎日顔を出す。こういう場所にこそ、意外と落ちてたりするからだ。俺の欠けている記憶を埋めてくれそうな女が。

 二杯目を選ぶ振りをしながら座ったばかりの女を見た。

 地味なスーツだが品は悪くない。そこそこ高いヒールをスツールに引っ掛けて遊ばせて、カウンターに並んでいる酒を見るともなしに見ている。仕事帰りに一杯飲みに来たって感じ。長めの前髪が邪魔をして顔は見えないけれど、シルエットはそう酷くもなさそうだ。顔なんて見ないから美醜に拘りは無いが、見目は良いに越したことはない。耳朶にはピアスが光ってる、唇は淡いパールピンクの口紅で濡れて光ってる。

 注文した酒は美しいコバルトブルー。女の手がカクテルグラスに伸びた。

 細い手首、ちょっと力入れたら折れちまいそう。恐らくピアスと揃いのブレス、大人しめのデザインの時計。指輪はしていない。

 細いグラスの脚を指が捉えた。

 俺の全身が脈打つ。

 女の爪は長すぎず、短すぎず、先端は綺麗に丸く整えられていた。そう、余計な装飾は何一つ無い。キラキラのラインストーンも、細かい模様も、変なラメみたいなのも。

 ただ、そこだけ一刷けの朱を差したように真っ赤だった。

 俺はグラスを空けて席を降りると、ゆっくりと女に歩み寄り、テーブルに手をついた。女が振り向く、どこか訝しげな表情で。きつい香水の匂いはしないが、ヒールの踵は硬い音を立てた。俺は微笑んで言う。

「お姉さん、一人?」

 表情が和らいだ女の隣に腰かけ、コバルトブルーを飲みながら見つめる視線の先。

「・・・綺麗な爪だね」

 手を取った。女は驚いた様子を見せたけど、抵抗はしない。真っ赤なマニキュアは綺麗に光って俺を誘う。

 俺は右ポケットの中で、汗で滲むペーパーナイフを握り直した。






メルマガVol.143掲載(2006年6月12日発行)
本当はもっと救いようのない話にする予定でしたが健全サークルなので自重しました。


// written by K_